広島を生ビールで元気にしたい!ひろしま元気プロジェクト

ひろしま元気プロジェクトについて

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マスター重富の想い・メッセージ

広島生ビールの原点を再現!

美味しい生ビールで流川を元気に! ひろしま元気プロジェクト始動!

マスター重富の想い・メッセージ

 

2012年7月 ビールスタンド重富 誕生

 

重富家と生ビールの歴史は昭和初期に遡ります。

初代、重富 博が生ビールに出会い、広島に広めることを決意してから現在に至るまで

居酒屋 四斗平、重富酒店と共に生ビールの本当の旨さを追い求めてきました。

 

2012年7月 ひろしま元気プロジェクト始動と共に

「ビールスタンド重富」の誕生です。

 

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重富家と生ビールの歴史 旨いビールを追及する三世代に渡る物語
<第1章 初代 四斗平の誕生

それはまだ、昭和を迎えて間もない頃のことです。

現在の中央通りあたりに「四斗平」という名の居酒屋が店を構えました。

初代 四斗平の誕生です。

元々、初代重富 博が経営する酒屋で自家ブレンドする日本酒を広めるために開いたお店でしたがとても庶民的なこともあって、地域の人から大変愛され繁盛していたそうです。

その当時、宣伝の意味でのお店だったので、営業時間は夕方の2時間程度だったと聞いています。

「四斗平」という店名の由来は、力持ちだった初代が、日本酒の樽で一番大きい「四斗樽」をでないと「酒屋」は勤まらない!という意味で名づけられたそうです。

「四斗樽」とは「しとだる」あるいは「よんとだる」と読み、そこから店名も「しとへい」と読むようになりました。

 

第2章 初代と生ビールの出会い サンソ式生ビールの誕生

初代、重富 博は戦前の大阪の街で「生ビール」に出会います。

その味を広島で広めるために単身兵庫県西宮市へ。

当時の広島には、まだ生ビールを扱える人もお店もなく、人々が気軽に生ビールを飲むことはできませんでした。

初代はなんとしても「この旨い生ビールを広島の人々に飲んでもらいたい」と強く願ったようです。

 

兵庫県西宮市にあった、アサヒビールさんの工場で、ドイツ人技師から直接指導を受け、樽(当時は木樽)の原理、その取扱い、ガスの管理、ビールサーバーの指導等、生ビールについての知識と技術を習得し広島へ持ち帰った後、当時の四斗平で「生ビール」の取り扱いを始めました。

当時の名称はサンソ式生ビール。

 

第3章 終戦

戦争が終わり広島に戻ってきた初代重富 博は、酒屋の営業を再開します。

この時、初代 四斗平の店舗は原爆で焼失しており、再開はままなりませんでした。

そこで、再度「生ビール」を飲んでもらおうと、祖父とその兄の2人で開店させたのが生ビール専門レストラン「かねまさ」です。

洋風のレストランメニューで、一年中生ビールを販売するために、冬はストーブを焚き、温かい店内で生ビールを楽しんでもらったようです。

 

初代 重富 博(右側)

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生ビール専門店「かねまさ」にて

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しかし・・・当時の広島では、冬に生ビールを飲む習慣がなく・・・残念ながら「かねまさ」は1年で閉店となりました。しかし、料理メニューを瀬戸内の魚介類に変更し、新生「かねまさ」として生まれ変わります。平成の現代でも「かねまさ別館」として、広島を代表する「ふぐ専門店」として現存しています。

 

祖父は「かねまさ」の手伝いを離れ、酒屋のみで営業を続けています。

 

第4章 二代目に引き継がれる熱い思い ビールサーバーの出前講座を実施

その当時、生ビールの樽とビールサーバーを取扱う酒屋、飲食店は増えていましたが、まだ適切な取扱いを指導できる人はいませんでした。

初代の長男(二代目)は当時修道高校に通う高校生でしたが、学校から帰ると学生服のまま飲食店にでかけ、連日のようにビールサーバーの出前講座を実施して回ったそうです。

初代の生ビールへのこだわりは、しっかり二代目に引き継がれていました。

 二代目の生ビールへのこだわりは、その姿を見て育った三代目、つまり私(重富 寛)にも強く引き継がれていることを実感します。そして平成の世に四斗平が再び姿を現す原動力へのつながっていくのです。

 

第5章 三代目、うまい生ビールに覚醒  管理次第で格段に旨くなる!

時は過ぎ、平成のある日のこと。初代の孫にあたる三代目こと重富 寛は、サントリービールの「生ビールセミナー」に出かけます。そこでは、洗浄・管理・メンテナンスで生ビールは格段に旨くなる事を知るのですが、それと同時に、いまの標準的とされている提供方法が旨い生ビールを「わざわざまずくしている」ことに気づきました。それは私が生ビールに覚醒した瞬間でした。

それから1年をかけ、全ビールメーカーの生ビールセミナーに通いました。

例えば、キリンビール京都工場での2日間セミナーなら、大阪のカプセルホテルを利用して1泊2日の旅程にするなど、経費削減を図りながら知識を蓄える1年でした。

各セミナーはこれまでの「生ビール観」を変えるものでした。ドライバーを渡され、ドラフトコックの分解も

何度となく行いました。それらは生ビールを美味しくする「原理・原則」を学ぶ貴重な場となりました。

 

第6章 樽生セミナーを独自開催 試行錯誤の連続からチャンスの女神が舞い降りた!

三代目、重富 寛は各ビールメーカーから習った生ビールセミナーのエキスを自分なりに編集しなおし、自社会議室にビールサーバーを持ち込んで、飲食店向けの独自生ビールセミナーを始めました。

セミナー修了者が在籍する店は、「美味しい生ビールが飲める店」としてインターネット上に店名等の情報を掲載し、美味しいビールを広める活動に力を入れました。

セミナーは得意先を中心に総数50名近い人が受講しています。

 

生ビールセミナー受講風景

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しかし、その生ビールへの熱い思いは空回りする事が多く、美味しい生ビールを提供するお店は

中々定着しなかったのが事実です。

そんな試行錯誤の日々を送る中、チャンスの女神がやってきたのです。

 

 

第7章 居酒屋 三代目 四斗平 広島に蘇る

それは「自社で飲食店を経営する」という機会でした。コンセプトは「生ビール」。

ようやくこの思いを生かす時が来たかと非常に興奮したことを今でも覚えています。

飲食店にとって店名の良し悪しは極めて重要な要素です。この生ビールの店の名前をどうするか、当然、様々な思考を重ねましたが、私の頭には四斗平の名しか思いつきませんでした。

私は意を固めて、二代目 四斗平の倉本婦人に連絡を入れました。婦人は体調不良で入院中でしたが「四斗平」の名前を使わせて欲しいとの申し入れに快く承諾をくださいました。

その後、婦人は体調が急変し、帰らぬ人となりました。

三代目 四斗平が初めてのれんを出す日が、婦人のご葬儀の日となろうとは、ただならぬ縁を感じずにはいられません。

 

平成20年3月12日 三代目 四斗平を復活させる。

自称「最高・最強の生ビール」の居酒屋!!

ビールメーカーに世界一のドラフトコックを注文し、社員全員のテイスティングで決めた「四斗平仕様ドラフトコック」の誕生です。

 

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四斗平仕様ドラフトコック ※復活当時のものです。

 

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復活当時の三代目 四斗平

 
 

 

 

 

 

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