ビール業界の「ONE TEAM(ワンチーム)」を目指した男①
2020年02月06日 | 17:46 | カテゴリ:麦酒の歴史
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麦酒伝道師を目指す重富寛です
テーマは「同樽飲友」
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ビール業界の
「ONE TEAM(ワンチーム)」
を目指した男
日本麦酒社長:馬越恭平
※エビスビール記念館
(東京恵比寿)の入り口前にある銅像
前回のコラムでも登場した彼ですが…
銅像前のプロフィールの最後にもかいてあるように
「東洋のビール王」と呼ばれています。
なぜ彼が「東洋のビール王」と呼ばれるようになったかというと…
明治維新にまで話は戻ります
日本で本格的にビールが生産され始めたのは明治初期
そのころのビールは、日本人向けというよりは
日本に住んでいる、外国人居留者たちが飲むビールでした。
その後、日本人もビールを飲むようになり・・・
数々のビール工場が出現します。
1900年(明治33年)ころには、
大小合わせて100もの醸造所があったといわれています。
その翌年明治政府は富国強兵の資金を得るために
「麦酒税」を導入します。
そのため、資金難に陥る醸造所が続出します。
また、明治初期に流行していたイギリス風のビール需要が減り、
イギリス風のビールを造っていた醸造所にとってはダブルパンチ
その年の末(1901年明治34年)には、醸造所は23社にまで減少します。
生き残ったビール会社の中で ビック4が
エビスビールを販売する 日本麦酒
サッポロビールを販売する 札幌麦酒
アサヒビールを販売する 大阪麦酒
キリンビールを販売する 麒麟麦酒
各社は、それぞれの商品の拡売を競いあいます。
戦い合うといったほうが正解かもしれません。
(平成の時代もそうだったかもしれません)
1904年(明治37)日露戦争が勃発
日本麦酒社長だった馬越は
酒税や他社との競争続きで疲弊していた他の麦酒に対して
「いたずらに国内競争をしていう時期ではなく
団結すべき。そして団結した力で世界の麦酒市場と戦うべきだ」と
これが、札幌麦酒 大阪麦酒に受け入れられ
1906年(明治39)「大日本麦酒」が誕生することになります。
当時のシェアーで7割を占める大会社となり、
その社長には、馬越恭平が就任します。
当時の各社の社長が…
日本麦酒 社長 馬越恭平
大阪麦酒 社長 鳥居駒吉 ※サントリーは鳥井さん
札幌麦酒 社長 渋沢栄一 ※2024年からの一万円札
その時の仮契約書が、
サッポロビール博物館(札幌市)に展示してあります
その後、大日本麦酒は、スエズ運河以東で最大規模のビール会社に成長し
「東洋のビール王」と呼ばれることになるのです。
残念ながら 麒麟麦酒とは 道を同じくすることができませんでした
当時の麒麟麦酒を醸造していた ジャパンブルワリーカンパニーは
外国人経営でした…
「日本の国難に対処する」という考え方では
同じ船に乗ることは難しかったようです。
令和の時代も、平成に続き…
ビール各社は熾烈な戦いを続けるようです…
ビール業界の「ONE TEAM」
シェアー争いではなく、今の日本の経済をささえる
日本中の働く人たちをビールで応援する!
令和の時代の 馬越恭平は…現れるのでしょうか?
しかし、馬越は
国内シェアーの七割を握っても満足しませんでした
第二位のキリンビール
第三位のカブトビールにも
精力的に合同を持ち掛けることになるのです
つづく…
参考資料
大日本麦酒の誕生(雷鳥社)著者:橋田晶
キリンビールweb 酒・飲料の歴史 より
ビールスタンド重富
広島市中区銀山町10-12
営業時間:17時~19時 営業カレンダー
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※お一人2杯まで
ビールスタンド重富ekie
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営業時間:10時~21時
定休日:元旦及び、ekiekitchen営業日に準ずる
※杯数の制限はありません
※ekiekitchenで購入された「つまみ」は持ち込めます