広島を生ビールで元気にしたい!ひろしま元気プロジェクト

旨い生ビールで「広島」の経済を復活させると信じて行動する酒屋の社長の徒然日記

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ラジオ@シゲトミ No3 重富の少年時代

ビールスタンド重富マスター重富です
100年続く、重富酒店を経営しながら 酒屋の店先と、広島駅で
ビールスタンド重富というビールスタンドを運営しています。

 

今日の放送は 2020年8月7日 第3回目です
今日は、重富の少年時代について お話ししたいと思います。

私が生まれたのは 昭和37年 1962年 寅年です
この2年後に 東京オリンピックが開催されます。聖母幼稚園に通い
幟町(のぼりちょう)小学校に通いました。
先日小学校に行く用事があり、体育館に掲示してある「校歌の歌詞」をみてびっくりしたことがあります。 50年前に覚えた歌詞と違っているんですよ
重富の時代は こうでした 1000余人もろともに…体を鍛え 技を練り♬
現代の歌詞は 500余人もろともに と 児童数が半分になっています。
このことを、ご近所の先輩たちに伝えると わしらの頃は 2000余人じゃなかったか…と
時代と共に、校歌の歌詞は変わって行くんですね‥‥

小学校の頃の記憶は、あまり覚えていないのですが 修学旅行でいった 秋吉台や萩のことはよく覚えています。 修学旅行記に「吉田松陰さん」の事を書いた気がします。

この当時私が住んでいたのが 酒屋の2階です。 目の前に仏壇通りがあります。
その頃の仏壇通りは、いまのような飲食店街ではなく、商店街でした。
量となりは 魚屋さんと 杉の木でつくった「風呂桶屋さん」
よく、作りかけの風呂桶の中に入って遊んで怒られましたが、子ども心に
杉の香りに包まれる心地よさを覚えています。

そのころの両親ですが、父は酒屋組合の役員を引き受けたり、飲食業界の活性化に積極的に関わっていたように思います。日曜日に家にいた事はほとんどありません。母も、町内会の事や、子ども会など、わりと中心となってまとめていたような気がします。
たまに家族で食事に出かけても、父と母は、周りの人に挨拶ばかりで、重富少年は外食が嫌いになった時期もありました。

でも、地域や業界のお役にたてる関りをする。という重富の今の行動様式は
この時の両親から受け継いだものなんだろうと思います。
3年生か4年生の頃、連れて行かれたのが
寺町にある善正寺さん。ここには重富家の墓があり、墓参りにはよく来ますがその日は違っていました。 お墓参りもせずに、ある集会に参加させられました。
青いキャップをかぶり、黄色いチーフを首に巻いてもらいました。
ボーイスカウト広島第2団 カブスカウト隊に 入隊したのです。
我が家や、なにか行動を起こす時に「いきなり」が多かった気がします。
学習塾や絵画塾も、いきなり教室に連れて行かれ、そのまま席に着く感じです。
重富が、物事をはじめる時、周りにほぼ説明せずに「そく行動」して、周りを置いてきぼりにするのは、ココからかもしれませんね…
ボーイスカウトは、高校生まで続けることになります。

中学校は、戸坂にある 城北中学へ進みます
当初は、バスで通学していましたが途中からは自転車通学。 たしか20分以内で通学していたように思います。 下半身が太っているのは、きっとこのせいで。

重富の中学入学までをふりかえってみましたが…
私の行動様式は、この時期に身についたようですね…
 

おしらせです

現在重富は、クラウドファンディングに挑戦中です
内容は
コロナが収束するまでに、日本中のビールを美味しくするプロジェクトです。
ネットで「カナエンサイ夢」「カナエンサイ夢」で検索してみてください。
2020年8月末まで実施しています。よろしくお願いいたします。

第3回目の放送は ここまでです
次回は 中学から大学までを振り返ろうと思います。

「手入れの行き届いたビールは、笑顔を生み出します」
ビールスタンド重富マスター 重富がお届けしました。

 

 

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