広島を生ビールで元気にしたい!ひろしま元気プロジェクト

旨い生ビールで「広島」の経済を復活させると信じて行動する酒屋の社長の徒然日記

旨い生ビールで「広島」の経済を復活させると信じて行動する酒屋の社長の徒然日記

阪神淡路大震災から15年・・・・

今でもあの日の朝を鮮明に覚えています。

 

 

 

自宅の二階の寝室で寝ていたのですが、ゴォ~と言うような地響きというか、揺れに目が覚めました。 とっさにとった行動は、自分の布団を妻にかぶせました。 その時妻は妊娠8ヶ月でした。 すぐにおさまるだろうと・・・でも 揺れは1分くらいは続いたでしょうか?

 

脳裏には、会社の「酒」が・・・かなり倒れて壊れているだろうな・・・ と

 

朝のニュースで、神戸の街に黒煙が上がっている映像を見ました。 今朝の地震は「神戸」だったんだ。 ニュースを見るたびに、とてつもなく大きな地震であったことが伝わってきます。

 

会社に到着した私は、ホッとしました。 何千本とある商品の中で、破損していたのはワインが数本だけだったのです。

 

そのころの私は、広島青年会議所に所属しており、その年はセクレタリーを務めさせていただいていました。 正副会で「神戸に支援に行こう」との話があがり、すぐに「連れて行ってください」と申し出ました。

 

広島青年会議所(JC)のメンバーから、様々な食料物資をいただき(魚・肉・牡蠣・水・・・)トラックに積んで、朝早くに広島を出発しました。 車には「救援物資運搬中」と明記し、山陽自動車道を朝日に向かって走りました。

 

岡山県を過ぎて兵庫県に入る頃から、家々の屋根にブルーシートが目立ち始めました。 そのブルーシートの数が、少しづつ増えているのがわかりました。

 

高速を姫路で降りて、現地のJCメンバーに先導してもらい神戸の町に入りました。 目的地は長田地区です。 目を覆いたくなるような惨状と、鼻を突き刺すよな焦げた匂い。 直線ですすめば、すぐの距離を、迂回して迂回してすすみます。 メイン道路は片付いていましたが、路地に入るとそのはまだ地震直後の様相でした。

 

長田地区の学校の校庭にトラックをとめ、準備にかかりました。

 

ドラム缶を改造した大型コンロで炭をおこし、金網をのせて 焼き肉・焼き魚・焼き牡蠣を 皆さんに配り始めました。

 

長打の列ができていましたけど、誰一人として割り込んだり、文句を言う人はいませんでした。 私は、お渡しする係りをしていました。 かなりの量の材料をもってきていたので、多くの方々にお配りすることができました。 「頑張ってくださいね」「熱いので気をつけてください」そんな声をかけながら数時間経ったころでしょうか・・・

 

隣にいたメンバーが「お前 なにを 言いよるんや!」と声が聞こえます。 ふとわれに返りましたが・・・ その時の私は、食事を皆さんに渡しながら

 

  「ありがとうございます」 「頑張ってくださいね。本当にありがとう」

 

そんな言葉をかけていました。 自分では無意識だったのですが、自然と口から出た言葉でした。 疲れとるんじゃろう、少し休めや! と 言われましたが、まったく疲れを感じていない自分にビックリです。 朝早くから出発し、運転し、焼き続けて・・・ 疲れ という感覚がまったくありません。

 

それから1時間くらいして、食材もなくなり、片づけをして広島への帰路につきました。 学校を出るときに、子ども達が手を振って「ありがとう! 気をつけてね~」と声をかけてくれました。 その時の子ども達にも「ありがとうな!」そう声をかけていました。

 

真っ暗な高速を広島に帰りながら・・・なんで「ありがとう」と言ったんだろうと考えました。 同行したメンバーはみな疲れて寝込んでいます。 静かな車内でゆっくりと考えることができました。

 

そして思いました。

 

「支援物資を届けて、なにかお役に立ちたい」という気持ちででかけました。 そこには「感謝されたい」そんな気持ちはありませんでした。が・・・ 食事を手渡しながら、多くの方々からの感謝の言葉をいただきました。

 

私がお渡ししたのは「食事」ですが、そのお返しに「感謝」という気持ちを たくさん、沢山いただきました。 そのことに「ありがとう」と言葉が出たのだと思います。 その感謝の気持ちをいただいたことで、疲れを感じずに、笑顔で動き続けることができたのかと思います。

 

      「ありがとう」って すごい言葉ですね

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