24時間テレビが 原点だった・・・・
2010年08月29日 | 12:43 | カテゴリ:未分類
webサイトから、過去の歴史を覗いてみました。
第一回 1978年8月26・27日
寝たきり老人にお風呂を! 身障者にリフト付きバスと車椅子を!
総合司会
萩本欽一 大竹しのぶ 大橋巨泉 竹下景子
チャリティパーソナリティ
ピンクレディー
僕がたぶん中学校3年生だったと思います。
自営業の家庭で育った自分ですが・・・その当時「家業を継ぐ」という
選択肢は・・・微塵もなかったと思います。でも、将来への「夢」もなかった
その時テレビの画面から飛び込んできた映像が、第一回目の24時間TV
その時に感じた衝撃と言っていいのか、もどかしさ、恥ずかしさ・・・
なんか色々な感情が湧きあがってきた瞬間でもありました。
「僕が居る場所は・・・ここ」
そう感じてしまいました。
高校に進学して、将来(進路)は、大学の教育学部!
養護学校教員になることを夢みました。
その時に読んだ「よしおかたすく」さんの著書の中に
障害児教育とは「その子の一番よいところを伸ばす教育」これが16歳の少年の「夢」となりました。
高校三年生。共通一次試験で総合点がよくなく、国公立の教育学部はあきらめ、私学の教育系を受験しました。 北は宮城県まで受験に・・・
初の1人遠出旅が「大学受験」でした。
それでも、子ども達が僕を待っている!という思いで寂しくはなかった。(今思えば、妄想ですけどね・・・その当時は夢と希望に)
3校受験し、全て「不合格!」
・・・教育には向いていないのか・・・ 自暴自棄になり
予備校にも通わず、毎日パチンコ屋さんに通っていました。
ある日、教員をあきらめて、家業を継ごうと決意しました。
プロとしてではなく、ボランティアとして子ども達と関わる道を選択。
翌年、長崎県立大学に入学し、迷わず「ボランティア部」に入部
4年間・・・施設訪問、子ども会、障害者団体との交流会
「水を得た魚」そんな表現がピッタリあうような・・・そんな4年間でした。
卒業する時に、ある障害児の保護者から・・・
「そんなに活動が出来るのは、あなたが学生だからよ」の一言
東京に就職し、担当地区だった目黒区の区役所に出向き
仕事をしながらでも出来る活動を探しました。
そこで出会ったのが「目黒区、障害児者の生活を向上させる会」
ここでの、さまざまな活動と経験は、ボランティア活動というよりは
地域で一緒に「生活する」というのがテーマでした。
5年間の東京生活を終え、地元(広島)に帰り、実家に就職。
広島市ボランティア情報センターの扉をたたき、資料収集。
自分の思うような活動がなく・・・
東京で始めた、パソコン通信を生かして
「きのこ通信倶楽部」という、ネットでの障害者との交流スペースを運営し始めました。
そこでさまざまな方と出会い、広島市ボランティア情報センターの運営にも関わらせていただきました。
そこで取り組んだ活動が・・・
3回開催されました「広島市ボランティアフェスティバル」 1回2回は、ハノーバー庭園で、3回目は、クレドホールとクレド広場。
子育てが始まり・・・子どもが小学3年生になったときに
小学校のPTA会長に・・・区の役員、市の役員・・・そして
最終的には、広島市の会長を担わせていただきました。
今年の24時間テレビをみながら・・・気持ちは16歳に戻っていました。
スタートは、このテレビだったんだなって・・・・