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旨い生ビールで「広島」の経済を復活させると信じて行動する酒屋の社長の徒然日記

旨い生ビールで「広島」の経済を復活させると信じて行動する酒屋の社長の徒然日記

24時間テレビが 原点だった・・・・

今年も24時間テレビが始まりました。 33回目だそうです。

 

 

 

webサイトから、過去の歴史を覗いてみました。

 

第一回 1978年8月26・27日

 

    寝たきり老人にお風呂を!     身障者にリフト付きバスと車椅子を!

 

    総合司会

 

    萩本欽一 大竹しのぶ     大橋巨泉 竹下景子

 

    チャリティパーソナリティ

 

    ピンクレディー

 

僕がたぶん中学校3年生だったと思います。

 

自営業の家庭で育った自分ですが・・・その当時「家業を継ぐ」という

 

選択肢は・・・微塵もなかったと思います。でも、将来への「夢」もなかった

 

その時テレビの画面から飛び込んできた映像が、第一回目の24時間TV

 

その時に感じた衝撃と言っていいのか、もどかしさ、恥ずかしさ・・・

 

なんか色々な感情が湧きあがってきた瞬間でもありました。

 

「僕が居る場所は・・・ここ」

 

そう感じてしまいました。

 

高校に進学して、将来(進路)は、大学の教育学部!

 

養護学校教員になることを夢みました。

 

その時に読んだ「よしおかたすく」さんの著書の中に

 

障害児教育とは「その子の一番よいところを伸ばす教育」これが16歳の少年の「夢」となりました。

 

高校三年生。共通一次試験で総合点がよくなく、国公立の教育学部はあきらめ、私学の教育系を受験しました。 北は宮城県まで受験に・・・

 

初の1人遠出旅が「大学受験」でした。

 

それでも、子ども達が僕を待っている!という思いで寂しくはなかった。(今思えば、妄想ですけどね・・・その当時は夢と希望に)

 

3校受験し、全て「不合格!」

 

・・・教育には向いていないのか・・・ 自暴自棄になり

 

予備校にも通わず、毎日パチンコ屋さんに通っていました。

 

ある日、教員をあきらめて、家業を継ごうと決意しました。

 

プロとしてではなく、ボランティアとして子ども達と関わる道を選択。

 

翌年、長崎県立大学に入学し、迷わず「ボランティア部」に入部

 

4年間・・・施設訪問、子ども会、障害者団体との交流会

 

「水を得た魚」そんな表現がピッタリあうような・・・そんな4年間でした。

 

卒業する時に、ある障害児の保護者から・・・

 

「そんなに活動が出来るのは、あなたが学生だからよ」の一言

 

東京に就職し、担当地区だった目黒区の区役所に出向き

 

仕事をしながらでも出来る活動を探しました。

 

そこで出会ったのが「目黒区、障害児者の生活を向上させる会」

 

ここでの、さまざまな活動と経験は、ボランティア活動というよりは

 

地域で一緒に「生活する」というのがテーマでした。

 

5年間の東京生活を終え、地元(広島)に帰り、実家に就職。

 

広島市ボランティア情報センターの扉をたたき、資料収集。

 

自分の思うような活動がなく・・・

 

東京で始めた、パソコン通信を生かして

 

「きのこ通信倶楽部」という、ネットでの障害者との交流スペースを運営し始めました。

 

そこでさまざまな方と出会い、広島市ボランティア情報センターの運営にも関わらせていただきました。

 

そこで取り組んだ活動が・・・

 

3回開催されました「広島市ボランティアフェスティバル」 1回2回は、ハノーバー庭園で、3回目は、クレドホールとクレド広場。

 

子育てが始まり・・・子どもが小学3年生になったときに

 

小学校のPTA会長に・・・区の役員、市の役員・・・そして

 

最終的には、広島市の会長を担わせていただきました。

 

今年の24時間テレビをみながら・・・気持ちは16歳に戻っていました。

 

スタートは、このテレビだったんだなって・・・・

 


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